加藤和人准教授ら、論考「日本の幹細胞研究に対して、規制がもたらした影響」を発表 [Cell Stem Cell]

2010年5月7日

 加藤和人 京都大准教授らの研究グループによる論考が、5月7日に米科学誌「セル・ステム・セル(Cell Stem Cell)」に掲載されました。

 日本における幹細胞研究と関連分野に関する法律や指針の成立過程を詳細に分析し、政府(国)が中心となって規制を整備するという日本の対応のあり方が、結果として幹細胞研究の発展を阻害してきた可能性について論じています。

<論考名>
"Regulatory Impacts on Stem Cell Research in Japan"
「日本の幹細胞研究に対して、規制がもたらした影響」

<著者>
Kawakami, M., Sipp, D. and Kato, K.
川上雅弘*(京都大学人文科学研究所**)、ダグラス・シップ*(理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター(理研CDB))、加藤和人(京都大学 物質-細胞統合システム拠点(連携)/人文科学研究所/大学院生命科学研究科(兼任))
*筆頭筆者として同等の貢献。
**現所属:京都大学iPS細胞研究所


川上雅弘
京都大研究員
 

ダグラス・シップ
理研CDB科学政策・倫理研究ユニット
ユニットリーダー

加藤和人
京都大准教授
 

論考の概要

 身体の中のさまざまな細胞を生み出すもとになる「幹細胞」に関する研究や「発生工学」と呼ばれる初期胚の操作技術は、近年、目覚ましい勢いで発展を遂げています。研究の進展に伴い、世界中で臨床医療への応用に対する期待も高まっています。その一方で、初期胚由来の幹細胞の扱いについては、倫理的、社会的、法的な面で多くの議論が行われてきました。とりわけ、ヒトES細胞研究や体細胞核移植技術の分野では問題が複雑で、国や州などのさまざまなレベルの政府が規制を設けたり、グローバルなスケールで法的枠組みを定める努力がなされたりしました。
 こうした中、日本政府は、早い時期からヒト幹細胞やヒト胚を用いた研究の倫理的、法的、社会的側面について取り組みを行い、研究のためのガイドラインを制定しました。その結果、日本は多くの国の中で“研究に寛容な”政策を持つ国として位置づけられてきました。しかしながら、政府によるガイドラインの作られ方やその後の運用過程をより詳細に見ていくと、実際には幹細胞研究を阻害した可能性が考えられます。

体細胞核移植技術の規制

 日本は、体細胞クローン技術に関して、世界で最も早く対応した国の一つだと言えます。1999年に首相の諮問機関である科学技術会議が提出したレポートによる勧告をもとに、2001年には体細胞クローン技術による個体産生を明示的に禁止する法律(ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律)が国会で成立しました。

 しかしながら、体細胞の核移植による胚の作製については法律では言及されておらず、専門家による委員会が3年間をかけて20回以上の会議を開き、最終的に難病の研究にのみ、この技術を用いてよいという結論を出しました(2004年)。その後のガイドラインの作成には、2008年までの3年以上の時間を費やすことになりました。体細胞クローン技術に関する最初の議論から、研究目的での体細胞クローン技術の利用を可能にするガイドラインの制定に至るまでのプロセスには、ほぼ10年の時間がかかったことになります。そして、現時点では、体細胞クローン技術をヒト胚作製に用いる申請は一件も出されていません。

ヒトES細胞のガイドライン

 1998年のヒトES細胞樹立の報告は、世界中でヒトの初期胚の研究利用についての議論のきっかけとなりました。日本でも、科学技術会議生命倫理委員会のヒト胚研究小委員会で議論が行われ、2001年9月に文部科学省が「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」を制定し、ヒトES細胞研究を行うルールが整えられたと言えます。しかしながら、ガイドラインでは、研究機関と政府委員会による二重の審査などの厳格な管理が求められ、研究現場からは厳格過ぎると言う意見もありました。指針の見直しの議論は、2003年から進められましたが、2007年まで指針改訂は実施されませんでした。その後、2008年に総合科学技術会議の生命倫理専門調査会によって、ヒトES細胞の樹立と使用に関する指針を分けることが提案され、2009年の改訂によって、ヒトES細胞の使用については、研究機関の倫理委員会による審査のみに改められましたが、最初の指針制定後から改訂までの研究申請件数は58件でした。

生殖細胞の分化

 日本では、2001年に策定された「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」の中で、ヒトES細胞の生殖細胞分化等の研究は禁止されていました。しかしながら、2004年の難病研究を目的とした体細胞クローン技術の利用についての結論を契機に、この核移植に必要なレシピエント卵細胞の作製などを想定して2005年からES細胞等の多能性幹細胞を用いた生殖細胞の研究に関する議論が始められました。そして2008年に提出された作業部会の報告書を基にした、ガイドラインの整備が進んでおり、2010年中には、多能性幹細胞を用いた生殖細胞研究に関わる指針が整備される見通しとなっています。

体性幹細胞と臨床研究

 骨髄移植のような造血幹細胞の臨床応用が始まってから20年以上の歴史があるにも関わらず、幹細胞を用いた臨床研究に関する研究指針が未整備だったことから、厚生労働省が2001年から幹細胞を用いた臨床研究のあり方の検討が行われ、ここで出された報告を基に「ヒト幹細胞を用いる臨床研究に関する指針」が2006年に制定されました。この指針の対象は、体性幹細胞に限定され、また、「ヒトES細胞の樹立及び使用に関する指針」と同様に、研究機関と政府の委員会による倫理審査等の手続きが求められています。指針制定以後、2010年2月までに認められた申請の件数は24件となっています。

幹細胞研究への影響

 これまでに見てきたように、日本では幹細胞研究に関わる研究指針の整備には、議論の開始から指針の制定までに5年から10年という長い時間をかけて行われてきました。研究の遅れを量的に示すことは困難ですが、こうした規制整備に時間がかかったことは、日本の幹細胞研究の推進に少なからず影響があったと考えられます。日本では、マウスES細胞を用いた研究では多くの実績があるにも関わらず、2005年までのヒトES細胞の樹立は3株にとどまっており、日本よりも研究費規模が小さいベルギーや韓国、チェコ、イスラエル、トルコ、台湾などよりも樹立数は少なくなっています。また、2008年の指針改定までは日本で樹立したヒトES細胞の輸出についても制限されていたため、海外との研究協力を進めることができないという影響がみられました。体細胞核移植技術においても、日本は世界に先駆けた実績を持つにも関わらず、ヒト試料を用いた研究は指針等の整備の遅れ等によって進みませんでした。このような傾向は、生殖細胞研究の指針整備やヒト幹細胞の臨床研究の指針整備でも同様の傾向が見られ、日本の研究が実験動物を用いた研究に留まり、ヒトを対象とした応用研究が進まない一因ではないかと考えられます。

国際的視点による検討

 日本における幹細胞研究に関する規制の経験は、急速に発展しつつある生物医学研究に関する政策策定に関して、貴重なレッスンを与えてくるでしょう。第一の点は、日本の官僚システムが、他の国、とりわけ日本と同様に宗教的・政治的論争が少ない中央政府主導型の国(シンガポールは一つの例)と比べて、ゆっくりと対応した、ということです。違いが生まれた一つの理由は、日本における意思決定がコンセンサスをもとにしていたためかもしれません。例えば、体細胞核移植によるヒトクローン胚の作製是非に関しては、2年以上の議論でもコンセンサスが得られず、最後には投票による決着という日本では珍しい経過をたどりました。

 日本は、この10年間、他のアジア諸国で見られるような中央政府による素早い意思決定のあり方や、米国を代表とする多元的社会が持つ多様な資金源のあり方の、いずれをもうまく利用することができませんでした。中央集権型のやり方にも、多元的社会における多様性に頼るやり方にも、どちらも利点と、生じ得る欠点があります。日本の経験は、両者の中間を辿った場合の危険性を示していると思われ、多元的手法を取り込もうとするアジア諸国や、中央集権型の社会を羨ましいと考える西洋諸国の科学者や政策担当者に対する貴重なレッスン(教訓)と考えることができるのではないでしょうか。

 さらには、最大の利害関係者であるはずの科学研究者のコミュニティが、政策担当組織と密な連携を取る事ができず、協調した取り組みができなかった点も指摘しておくべきでしょう。代表的な研究者が個人として国の委員会に招かれ意見を述べ、議論の舵を取ることもありましたが、いずれも政府の依頼による参加であり、科学コミュニティによる、組織としての、かつ、独立した検討は行われませんでした。加えて、担当の省庁における専門家の欠如も、規制のあり方に混乱を招く要因だったと言えます。2,3年ごとに部署を変わる官僚が委員会のスタッフを務めるシステムにおいては、スタッフの流動性とは反対に、規制そのものは堅固なものになる傾向があります。

おわりに

 こうしたハンディキャップにも関わらず、人工多能性幹細胞(iPS細胞)の発見に象徴されるように、日本は、幹細胞研究における世界的リーダーの一つであり続けています。幹細胞研究の規制システムを改革し、合理化することによって、現時点でも強力な日本の幹細胞研究のコミュニティは、さらに大きな成果を生み出すことができるのではないでしょうか。

著者よりのコメント

 今回の結果を踏まえて、是非、日本においても、政府、研究機関・大学、民間といった社会の中の様々なセクターに、研究の進め方(ガバナンス)を考えるための、自然科学と人文社会科学の両方の素養を持った専門家が配置され、継続的な情報収集・分析・提言が行える体制が整備されることを期待します。

 例えば、米国では、米国科学アカデミーに千人規模のスタッフが配置されており、スタンフォード大学には生物医学の倫理に関する研究センターが置かれ、幹細胞研究の社会的課題に関する研究が行われています。さらには、独立の民間のシンクタンクとして生命倫理を専門とするヘイスティングス・センターが知られています。

 研究のガバナンスを考える専門家が、社会の中の様々なセクターに十分に配置され、科学者コミュニティや政策担当者と協調しながらガイドラインなどの提案ができるようになれば、進展の早いライフサイエンス研究の変化にも対応できる規制の枠組みができるのではないでしょうか。

問い合わせ先

<論考内容について>
川上雅弘(かわかみまさひろ)研究員 Eメール: masahiro.kawakami@cira.kyoto-u.ac.jp
・現所属:京都大学iPS細胞研究所(当時:京都大学 人文科学研究所)

加藤和人(かとうかずと)准教授 Eメール: kato@zinbun.kyoto-u.ac.jp
・京都大学 物質-細胞統合システム拠点(連携)
・京都大学 人文科学研究所
・京都大学 大学院生命科学研究科(兼任)

<物質-細胞統合システム拠点(iCeMS=アイセムス)について>
飯島由多加(いいじまゆたか)Tel: 075-753-9755 | Eメール: yutaka-iijima@icems.kyoto-u.ac.jp
・京都大学 物質-細胞統合システム拠点 事務部 国際広報セクションリーダー


<文献情報>
Extenal LinkRegulatory Impacts on Stem Cell Research in Japan

Masahiro Kawakami, Douglas Sipp and Kazuto Kato

Cell Stem Cell, Volume 6, Issue 5, 415-418, 7 May 2010
doi:10.1016/j.stem.2010.04.010


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