数式を自在に使いこなし、 毛髪よりも細い電線づくりにいどむ

コンピュータの頭脳にあたるCPUは、約5cm四方の基盤のなかに、トランジスタと呼ばれる20ナノメートル(nm)、毛髪の直径の5,000分の1ほどのサイズの部品が80億個も配置されている。この小さくて精密な電子機器をつくるには、切る・削るなどの加工によって材料を小さくする従来の方法ではなく、最小単位の原子や分子を集めたり並べたりしてナノサイズの構造物をつくる技術が欠かせない。パックウッド講師は、複雑な分子の作用をシンプルな数理モデルで表わす理論化学の手法を用いて、ナノサイズの電気材料の合成方法を導きだした。

講師

ダニエル・パックウッド

Daniel Packwood

いまでこそ、難解な数式を巧みに操るパックウッド講師だが、大学に入るまでは勉強が苦手だった。ニュージーランドでは18歳で大学入試を兼ねた統一の認定試験を受けるが、パックウッド講師はぎりぎりでの合格だった。「数学と日本語でつまずいた。数学は手強かったし、日本語はスーパーファミコンにハマって興味を持って選択したけれど、ゲームの役には立たなかったから、勉強が続かなかった(笑)」。 そんなダニエル青年を奮起させたのは、友だちのひとこと。「理論化学が得意な友だちから、『難しい数学と化学は、きみにはムリだよね』と言われたんです。なにげない会話だったけど、ぼくはそのとき、成績が悪かったから、見下されたと感じたのかも。とにかく悔しくて……」。見返そうと努力するうち、化学や数学のおもしろさに目覚め、いつしか周囲を大きく引き離すほどに。

1985年にニュージーランドのクライストチャーチに生まれる。2010年にカンタベリー大学大学院化学専攻博士課程を修了し、京都大学大学院理学研究科化学専攻の博士研究員として来日。東北大学原子分子材料科学高等研究機構(AIMR)をへて、2016年から現職。

高い研究レベルと分野間の柔軟な横断がiCeMSの魅力

2014年9月、岩手県盛岡市の小岩井農場にて。これまでに、北は北海道稚内市、南は長崎県までを観光した。自然あふれる田舎がお気に入り。「自然や地球とつながると、人間として自然な姿にもどれる気がします」

 研究レベルの高い欧米の研究機関を目指して、ニュージーランドの大学院で研鑽を積むなか、日本で開催された学会に参加し、日本の研究レベルの高さに驚いた。「研究環境も魅力的。さっそく京都大学のラボにアプローチしました」。京都で3年過ごしたのち、iCeMSと同じ「世界トップレベル研究拠点」の一つである東北大学原子分子材料科学高等研究機構(AIMR)に所属。iCeMSの研究者との交流がきっかけで、2016年4月からiCeMSの一員に。
 研究室を壁で仕切らないiCeMSでは、学問分野を超えて交流ができる。「仲間から、実験で得たばかりのデータについて、『新しい物質をつくったんだけど、これ、どう思いますか』と尋ねられることもあります。会話の途中で、インスピレーションや新しい数理問題がどんどん降ってくる感じ」。

次世代の電線は、髪の毛の10万分の1の細さ

 パックウッド講師が注目しているのは、「分子の自己組織化」と呼ばれる仕組み。分子が外的要因からの制御を受けずに、自然に集まり、構造や機能をもった組織になる現象で、雪の結晶の成長やDNAの二重らせんの構築などにも見られる。パックウッド講師は、この現象をナノテクノロジー分野に応用できないかと構想を練る。「分子がまっすぐに並んで組織化すれば、髪の毛の10万分の1の細さの電線をつくることができるはず。電子機器の超小型化に貢献できます」。
 さらにこれを実験で実証するとなると、どの分子がどのように組織化するのかを一つひとつ試す必要があるが、パックウッド講師は、数理モデルを用いて予測を立て、まっすぐに並びやすい分子の種類と、分子が直列するための温度条件をみごとに特定した。膨大な時間と予算がかかる実証実験の負担を軽減することができ、「大きな一歩を踏み出した」と手ごたえを感じている。
 今後は実験データとの比較に取り組んでいくことになるが、「iCeMSは環境が整っているから、ほかのグループと協働すれば、考えた理論をすぐに実験で試せる。きっとこれからどんどん成果が出てくるはず。iCeMSで実物まで完成させたい」と意気込む。

頭のなかで動きはじめる数式たち

 実物での実験が難しい事がらは、コンピュータ上でシミュレーションすることが多いが、計算用の紙とペンさえあれば、基本の研究は可能。学生時代からの研究ノートは50冊を優に超える。「でも、近頃はノートに書かなくても頭のなかで数式を描ける。方程式は親戚のようなもので、名前と顔、声や口癖など、特徴はすべて頭に入っていますから」。無意識のうちに頭のなかで計算を始めてしまうことも。「片時も研究から離れられないのが、研究者の宿命。お坊さんが普段からずっとお坊さんであるのと同じ。その運命から逃れられません」。
 20代の頃は、知識や経験が浅いせいか、どんな課題に取り組むべきかわからず、ストレスを感じることも多かったという。「30代になって、いろいろな方法論を自在に使いこなせるようになり、『これを使えば解決できる』と、ひらめくことも増えてきた。成果を出して、仕事をこなしていくことができて、楽しくなってきた。研究はつらい道で、失敗、失敗、失敗の毎日が続く。でも、ある日、成果が出たら、その感動はことばで言いあらわせないよ」。

制作協力:京都通信社

※本記事は、アイセムスのニュースレター「Our World Your Future vol.3」に掲載されたものです。研究者の所属などは、掲載当時のものです。