工学と生物学との融合で、生体の組織構造を模倣する

私たちの生活のまわりにある医薬品は、世に出る前に多額の費用と長い年月をかけて開発されている。ヒトでの臨床試験を実施する前に、マウスをはじめとする動物を用いて薬効を評価する。動物とヒトとでは異なる反応を示すことが多いため、薬の毒性評価が難しいことにくわえて、動物愛護の観点からも動物実験の是非について問題が提起されている。その解決策を模索するべく、亀井謙一郎准教授は「ボディ・オン・チップ(Body on a Chip)」を開発。iPS細胞とマイクロ流体デバイスを用いて薬効を生体外で再現できることから、個別化医療の実現が期待されている。

准教授

亀井 謙一郎

Kenichiro Kamei

「先日、3週間ほどアメリカのサンディエゴ動物園で共同研究をさせてもらいました。研究対象は、園内にいる世界に2頭しか生存していない白サイです。絶滅危惧種の動物の保護も、私の重要な研究テーマです」。柔和な笑顔で、亀井准教授はやさしく語る。動物学のフィールドワーカーや生態学者の言葉のようだが、研究のベースは工学だ。 開発を進めているのは「ボディ・オン・チップ」。小さなマイクロチップのなかに、iPS細胞に由来する心臓や肝臓の組織を入れて、ヒトの生理反応や病気の状態を体の外で再現する。新しい薬剤開発への貢献をはじめ幅広い分野への応用が可能だが、亀井准教授はこのデバイスを用いた動物保全にも取り組んでいる。 現在、絶滅の危機に瀕している動物は3,000種を超えるといわれている。原因不明の病気にかかり、つぎつぎと命を落とし、数を減らす種も少なくない。しかし、個体の数が少ないために、安易に動物実験はできない。ボディ・オン・チップで絶滅危惧種の生体外モデルを作り、難病治療の糸口をさぐることが亀井准教授のねらいだ。

かめい・けんいちろう

1975年に東京都に生まれる。2003年に東京工業大学大学院生命理工学研究科生命情報専攻博士課程修了。カリフォルニア大学ロサンゼルス校分子医学薬理学専攻研究員、カリフォルニア・ナノシステム研究所研究員をへて、2010年にiCeMS助教に。2015年より現職。

いまもむかしも、ものづくりに熱狂

チップの大きさは縦75ミリ×横25ミリ。独自に開発したフォトリソグラフィを応用した立体加工技術により、高性能なバルブとマイクロポンプをチップ内に集積化することに成功

 「私はとにかく、ものづくりが大好き。その欲求は仕事の枠におさまりきらず、プライベートの区別なく、いつもなにかを作っています。新バージョンのボディ・オン・チップを試験的に作るために必要なレーザーカッターも、自分で組み立てました。メーカーから部品を取り寄せて、休日を利用しての工作は至福の時でした(笑)」。
 その熱狂ぶりの片鱗は、小学1年生のころから。きっかけは親に買ってもらったガンダムのプラモデルだ。説明書どおりに手を動かして完成させたものをいろいろな角度から観察し、達成感に酔いしれた。興味はラジコンの改造や、時計の分解へと拡がった。中学校、高校に進学しても熱は冷めず、説明書がないものを自分の発想で作りたいとさえ思うほどに。当時の夢は、ロケットを飛ばす宇宙開発技術者や、F1で爆走するレーシングカーを造るメカニックだった。ものづくりをとおして、世界中を「あっ」と驚かす職業に憧れた。
 大学の進路選択というだいじな時期、自らの進路を迷う友人も多いなか、亀井青年は早い段階で工学部に的を定め、東京工業大学の生命理工学部の道を選んだ。「工学と生物の分野が混ざったような学問です。人工物としての工学だけでなく、自然が作りだした生物の構造にも惹かれたのです。『人間はどうして考えることができるのだろう。考えるときの脳のしくみはどうなっているのだろう』と」。
 研究に没頭するなかで、自分の頭で論を組み立てることに魅力を感じ、研究者を志す。会社員として企業から与えられたタスクをこなすよりも、目的も手法も自分で自由に発想して計画を練るほうが性に合っていた。

基礎的な生物学を取り込み、さらなる工学の高みへ

サンディエゴ動物園の白サイと。京都大学野生動物研究センターと連携し、シマウマ、イヌワシなどの絶滅危惧種の研究にも取り組んでいる

 博士課程修了後は、博士研究員としてカリフォルニア大学ロサンゼルス校へ。「私の人生で、大きな決断でした。がらりと方向転換して基礎的な生物学のみに取り組む研究室に進みました。それまでも生物学にふれていましたが、研究の土台は工学です。研究の最終着地点が工学だとしても、いちど専門的な生物学の見地にも立ち寄ったほうがよいと思ったのです。理学的な考え方がわからないと、ハイレベルな工学は成り立ちません」。
 慣れない環境でひたすら遺伝子を操作して、遺伝子組み換えマウスの世話をする毎日。工学にはいっさい触れず、基礎の基礎から生物を学び始めることに不安を抱くことも。しかし、吸収することは多かった。遺伝子組み換えに必要なES細胞は、それまでにいちども触れたことはなかった。工学の領域にいるだけでは、得られない多くの知識や経験が盛りだくさんだった。
 転機となったのは、渡米2年目に始動した共同研究。マイクロ流体デバイスのなかで自動で化学合成するしくみづくりに挑戦した。「チームが取り組んでいたのは、がん検診で一般的なPET検査の実験でした。これは、がん細胞に蓄積されるブドウ糖に似た化合物を体内に投入することで、がん細胞の所在がひとめで確認できる検査です。化合物から放出される放射線が標識となるのですが、合成時に人の手で放射線を扱うのはとても危険なので、マイクロ流路のなかで自動的に合成させる必要があったのです」。
 そうして合成した化合物が細胞内に取り込まれるかを検証するには、工学と生物学への深い理解が不可欠。細胞の扱いもマイクロ流路の設計も、高いクオリティを実現できる自信があった亀井准教授はこれまでの経験のすべてをこの一点に注ぎ込んだ。「当時は研究で一定の成果を出そうとやっきでしたが、いま振り返ると、この研究との出会いがとても大きかった。それ以降、マイクロ流体デバイスと細胞とを掛けあわせた研究に焦点をあてることになりました」。

「工学」とは、社会に貢献すること

研究と同じくらい、家族との時間もだいじ。休日は一人娘と旅行に出かけ、研究への英気を養う

 2010年にアメリカから帰国してアイセムスの一員に。海外で習得した技術を応用し、2012年から挑み始めたボディ・オン・チップの研究成果を2017年に発表。
 小さなチップ上に複数の組織をマイクロ流路で接続し、世界で初めて組織間の相互作用が確認できるデバイスを開発した。どんな組織にでもなれるiPS細胞の特徴と、小さいものを高精度で加工できるマイクロ・ナノ工学とを組み合わせれば、より生体に近いモデルを作れるのではないか。試行錯誤の先にたどり着いた渾身の作だ。
 現時点のデバイスは、体の複雑な血管網をも再現できるクオリティの高さだが、完成形ではない。亀井准教授が見据える頂は、まだまだ先にある。体内の環境により近いモデルを創造するべく、極小チップのなかにセンサーや電極を組み入れた改良版の開発をゆっくりと、着実に進めている。
 ものづくりをとおして社会の役に立つ。そのモチベーションの高さを自負する亀井准教授。あらゆる異分野に興味をもち、それを自分の研究に取り入れる姿勢をだいじにするが、「あくまでも工学の研究者」だと言いきる。「学生時代に『新しいものをつくって社会貢献をする。そこまでが工学だ』という言葉を聞き、とても感銘を受けました。それが私の研究ポリシーになっています。気をつけているのは、「工学のための工学」に陥らないこと。その分野だけで活用され、ほかの分野に応用できないものには魅力を感じません。最終地点を『社会に貢献すること』に置いたうえで、研究のプロセスを踏むことが『工学』という意味なのだと思います」。

制作協力:京都通信社

※本記事は、アイセムスのニュースレター「Our World Your Future vol.9」に掲載されたものです。研究者の所属などは、掲載当時のものです。