だれもが驚く新しい方法で、自然を表現したい
細胞が増殖•分化し、受精卵から生物の体がつくられる過程を「個体発生」という。そのさい、細胞はおしくらまんじゅうのようにお互いに押し合いへしあいながら、力をかけあっている。個体発生を制御する化学的なシグナル伝達経路が明らかになりつつある今、「機械的な力がいかに生物の形に影響をあたえるのか」という問いに注目が集まる。杉村薫准教授は「力」を軸に、イメージング技術、ソフトマター物理、数理統計学など、多岐にわたる領域を縦横無尽にかけめぐり、生物の謎を解明すべく研究に没頭している。
特定拠点准教授
杉村 薫
Kaoru Sugimura
「これはショウジョウバエの翅のライブイメージングです」。杉村准教授が机上のノートパソコンをくるりとこちらに回転させた。映し出されていたのは、ショウジョウバエの翅が形成される過程。無数の光る細胞が、翅の先端側から胴体にむけてゆっくりと移動している。あまりに幻想的なその光景は、夜空にきらめく天の川を想起させた。「ショウジョウバエの翅は、個体発生の基本的なロジックの解明に貢献してきました。私の研究には定量的なデータの収集が欠かせない。学生時代から、実験や数理モデルでショウジョウバエを扱ってきました。遺伝学的ツールもとても充実していて解析しやすいし、それから──」。しだいに早口になり、声のトーンは高くなる。生ごみに集まるハエは多くの人にとっては不快な生物かもしれないが、杉村准教授にとっては自身の研究を支える特別な存在だ。実験生物という枠をこえて、どこか愛情すら感じさせる語りからは、研究にうちこむ純真な姿勢が垣間見られる。そのルーツはどこにあるのか。
すぎむら・かおる
1978年に兵庫県に生まれる。京都大学大学院理学研究科生物科学専攻博士後期課程修了。博士(理学)。日本学術振興会特別研究員、理化学研究所研究員をへて、iCeMS特定助教に。2017年から現職。
ショウジョウバエ上皮翅のライブイメージング画像:さなぎ期の翅。細胞接着分子のE-カドヘリンが蛍光で標識されることで細胞の動きが観察できる。胴体側(左側)から引っ張る力が働き、その応答として細胞の集団が右から左へ流れる。
人生の転機は理科の実験
幼いころから本の虫だった杉村准教授。関心の幅は広く、宇宙、サイエンス、恐竜、児童文学など、興味のおもむくままに時間を忘れて何冊も読み漁った。周囲の女の子が関心を寄せるおもちゃや人形には目もくれず、クリスマスには児童文学の本を両親にねだったことも。想像力の翼を広げて、物語のなかを探検した。「将来は世界を表現する仕事、たとえば作家や映画監督になりたいと思ったこともあります。でも、子どもながらにそんな才能はないなと自覚していました」。 転機は中学校での理科の実験。ボールを転がす実験や振り子をゆらす実験など、単純な実験でも夢中になれた。「女子4人グループで実験するのですが、ほかの3人は興味がなくてやりたがらない(笑)。わくわくしながら、1人で黙々と実験しました。『これなら私にもできるかも!』と思ったのです」。
当時、興味をそそられたのは、物理と化学。数式で明快に解ける物理や化学とは異なり、曖昧模糊としたイメージの生物はおもしろさがまったく理解できなかった。「偶然にも高校1年生の夏休みに、分子生物学の始まりに関する解説本を読んで、目から鱗が落ちました。生物の動きはここまで論理的に説明できるものだったのかと。印象は180度変わり、『生物を物理の視点で研究したい』という気持ちが湧きおこりました」。
革新的な定量法を開発
生物と物理を統合するメカノバイロジーに取り組んだのは、それから約10年後、理化学研究所の研究員時代。「大学院では、ライブイメージングや分子遺伝学を取り入れ、樹状突起が形成されるメカニズムを解析しました。学位をとる直前に、これまでに見つけた実験的な知見を取り込んで、樹状突起形成の数理モデルづくりに挑戦してみたのです。それには、諸分野の意見を取り入れる必要がありました。いまの共同研究者をはじめ、多くの人たちとの出会いを機に、個体発生の過程に『力』が重要な役割を果たしていることに気がついたのです」。当時、生体組織内の力学的なメカニズムの多くは不明のままで、研究はほとんど進展していなかった。生命のしくみを解明したい一心で、真剣に取り組んでみることに。
共同研究者の石原秀至准教授(東京大学)とともに挑んだのは、外部から力を加えずに、個体の細胞たちが受ける力を視覚的に測る方法。細胞どうしが接着する面の張力と細胞の圧力の相対値を、統計学を用いて推定する「力のベイズ推定法」を開発した。「かんたんに言うと、細胞のかたちを画像で解析して、細胞にかかっている力を推定する技術です。力をかけると、ものの形は変わりますよね。原因と結果の関係を反転させて、形の情報をもとに力の測定を試みたのです。光で細胞に外力を加える光ピンセット法などは、詳細な情報は得られるけれど、調べられる細胞の数はわずか。私たちの方法なら、推定値とはいえ視覚的な情報をもとに2万もの細胞をいっきに測ることができます」。杉村准教授らは物理と生物に、数理統計の思考を統合することでこの手法を可能にした。定量化の手法としては革新的で、生命のしくみを示す「表現」としても斬新なものだった。
まだまだ深い、生命の謎
理研での研究成果が評価され、2011年4月にiCeMSの一員に。研究者を志した中学1年生からいまもずっと、強い探求心を保ち続けている。「『自分にしかできない方法で、自然を表現したい』という思いが私の研究を支えています。表現は個性がにじみ出るものだから、『ほかの人と同じ』なんておもしろくない。化学分野の研究者のようにゼロから新しい材料を創りだすのではなく、自然界にすでにあるものをだれもが理解しやすいかたちで表したいのです」。
生物の謎はまだまだ深い。たとえば、人間の細胞の核に含まれるDNAはひものような形をしていて、それを延ばすと約2メートルにもなる。わずか直径10マイクロメートルほどの核のなかに、人間の身長と同じくらいのDNAがおさまっているのだ。しかも、クローゼットに押しこむように乱雑に詰めこまれているのではなく、筋細胞や神経細胞などの細胞ごとに収納方法が異なるという。「『それっていったいどうなっているの?』と思いませんか。生物は、こんな基礎的なしくみでさえ解明できていないのです。生物学や物理学だけでなく、いろんな分野の知見や発想を連動させて突き詰めれば、いずれは生きている物質と生きていない物質の違いがわかるはず。生命のしくみを、私オリジナルの斬新な視点で表現して、みんなを『あっ!』と驚かせたい」。
制作協力:京都通信社
※本記事は、アイセムスのニュースレター「Our World Your Future vol.7」に掲載されたものです。研究者の所属などは、掲載当時のものです。