まだ誰も解明していない、 「美しさ」のしくみを追いかけて

私たちの脳にはおよそ860億個のニューロンと、その10倍以上の数のグリア細胞があり、複雑な神経回路を作っている。近年、加速度的に進むイメージング(可視化)技術により、その形成プロセスやメカニズムの謎が、明らかになりつつある。見学教授はニューロンのダイナミックな運動によって脳が作りあげられていく過程を直接観察し、正常な脳の発生過程と神経回路をかたちづくる原理を明らかにすべく、ミクロの世界を探検している。

教授

見学 美根子

Mineko Kengaku

「それはまるで宇宙のように深淵な世界。美しいなぁって思います」。見学教授がうっとりと話すのは、光輝く宝石でも、高名な芸術家の作品でもなく、小脳に整然と配置されるプルキンエ細胞。雑踏の中を人がぶつからず進むように、正常なニューロンはお互いに道を譲りあいながら突起を伸ばし、最終的にクジャクの羽のような精緻な組織をかたちづくる。「ひとつひとつの細胞は何かを考えているかのように礼儀正しく、まるで人のようなふるまいをします。彼らが見せてくれる世界を顕微鏡でひたすらのぞいているだけで、新しいことがおのずと見つかります」。冷静な語りのなかに熱を帯びた感情がこもる。 2008年10月からiCeMSの一員に加わりプロジェクトリーダーとして若いメンバーを束ね、切磋琢磨しながら研究に打ちこむ日々。「学生や共同研究者と議論し、時には衝突し、私が怒ったり逆にしかられたりしながら、いっしょに研究を進めています。彼らの発見に驚かされ、私のモチベーションにつながることもあります。若い研究者たちを型にはめず、自由な発想や個性を尊重することで、新しい考えを生みだす。それが、私の務めです」。相手を包みこむような、穏やかな雰囲気をまといながらも、ときおり自信に満ちた表情をのぞかせる見学教授。これまでに数々の実績を積みあげてきたが、はじめから研究者を志していたわけではなかった。

けんがく・みねこ

東京都に生まれる。1995年に東京大学大学院医学系研究科第一基礎医学専攻博士課程修了。ハーバード大学医学大学院ポストドクトラル研究員、京都大学大学院理学研究科生物物理学教室助手、講師、理化学研究所脳科学総合研究センターチームリーダーをへて、iCeMS准教授に。2012年から現職。

野山に飛び出し、生きものを愛でた幼少時代

東京近郊の東久留米市で幼少期を過ごした見学教授は、幼いころから生きものが大好きだった。里山をかけまわり、昆虫やカエルを日が暮れるまで追い、捕まえて飼育しながら観察し、夜は生物図鑑に夢中になった。生きものの行動や多様なかたちに魅了され、生きものへの好奇心がふくらみ続けると同時に、動物に関わる仕事に憧れた。「獣医がいいかな? それとも野生動物を保護する仕事かな?」。ぼんやりと瞬く光に導かれるものの、10代のころはまだ、具体的な職業にしぼりこむには至らなかった。
まずはさまざまな世界をのぞいてみようと、入学時に学部を選ばなくてもよい東京大学に進学。「学部選択までの2年間を過ごしてはっきりしたのは、すでに明らかになっている知見をもとに何かをするよりも、まだ誰も知らない真実を発見することに興味があるということ。生命のいとなみや生物のしくみについて知りたいと思い、理学部生物学科で動物学を専攻しました」。とくに神経機能の研究に強く心が惹かれた。イカの大きな神経の軸索を採取したり、シビレエイの電気器官の電位を測定したり生理実習の授業に精力的に取り組んだ。「神経のメカニズムがわかれば、謎だらけの動物の行動パターンを解明できると考えました」。

発見の喜びを知り、研究者の道へ

(左)小脳プルキンエ細胞(青)に入力する下オリーブ核ニューロン軸索(マゼンタ)とシナプス分子(緑)を多重蛍光染色し、脳回路の形成を解析する。(右)3次元画像のトレースを元にグラフィックス化した回路の様子。

大学院に進んでからは、毎晩、終電まで実験にのめりこんだ。注目したのは神経系の分化。頭から尻尾まで一続きの神経系は、神経管という管がだんだんと分かれて脊髄、大脳、小脳などに組織化される。人間のもつ遺伝子は約2万個と膨大だが、神経管が複雑に分化するメカニズムを説明するにはその数では足りず、当時はまだ解明されていなかった。しかし、神経管に特定のタンパク質分子をかけると神経らしくなっていくことはわかっていた。そこで、ツメガエルの未分化の胚細胞にFGFというタンパク質分子の濃度を少しずつ変えながら加えてみると、その濃度によって分化する脳の部分が違ってくることに気づいた。「濃いところでは脊髄に変化し、薄くするごとに脳前部が形成されるパターンを発見したときは、『あああーっ!』と足が震えるような興奮がありました」。
科学者の世界は熾烈な競争社会。リーダーとしての責務を負う今は、実験で大きな発見をしても、喜びより安心がまさってしまう。「だからこそ院生時代の経験は宝物です。純粋なときに、大きな発見にふれると、一生記憶に残ります」。このころの貴重な経験が、研究の道に進む決意にもつながった。

女性研究者が直面する理想と現実

ハーバード大学医学大学院在籍中。ポスドク先の研究室の仲間とボスの故郷シカゴを訪れたとき。左から2番目がボスのクリフォード・タビン。

研究への思いは膨らむ一方で、その道のりは挫折だらけ。当時の日本では、女性研究者に立ちふさがる壁は、あまりにも高かった。「今でこそ『女性もがんばりなさい』という空気がありますが、そのころはまったくの男社会。女性を採用しない研究室もたくさんありました」。どこかでやめなくては……。そんな思いがいつも脳裏にはあったが、そう簡単にあきらめることはできない。研究を続けたい一心で、ハーバード大学にポスドク研究員としての留学を決意した。
驚いたことに、留学先では研究室のメンバーの半分は女性だった。「自分が狭い世界に閉じこもってもがいていたことを実感しました。彼女たちは当たり前のように、生きがいのひとつとしてサイエンスに向き合っていた。私も研究を続けてよいのだなと、背中を押してもらいました」。
帰国してすぐに、大学院時代の先輩である平野丈夫教授に誘われて京都大学大学院理学研究科に。「京大は個性的な研究者たちを数多く輩出する、いわば学問のメッカ。著名な先生がたくさんいらっしゃいました。その後、私はいったんは京都を離れますが、京都に戻って夫といっしょに暮らせればと思っていた折に、幸運にもiCeMSでプロジェクトリーダーのポストをいただき、ぜひチャレンジしたいと思いました」。

純粋な気持ちを大切に

昨年、飛行機好きの息子と羽田の工場見学に訪れたとき。「残念ながら息子は生物にあまり興味がありません」。

iCeMSでの挑戦は9年目。今も夢中で走り続けているが、プライベートとのバランスも大切にしている。「両立させるにはやはり努力が必要です。栄養を考えながら子どもの食事をつくり、いっしょに食べる時間がいちばん楽しい」。朝から晩まで研究漬けだった生活は一転したものの、家庭をもったことで原点にもどり、自らが追い求める謎に絞りこんで研究を進められるようになった。
「若い研究者たちは、創薬とか、病因解明とか、すぐに役に立つ仕事をしたいという気持ちが強い。もちろん、それはとても大事なことです。でも、社会的ニーズを意識しすぎると、本当にやりたかったことを見失ってしまう。与えられた課題ではなく、自分の中から湧き上がってくる謎や、一番にやりとげたいという野心を、もっと大事にしてほしい。知の創造は人類の未来に役立つはずですから」。

制作協力:京都通信社

※本記事は、アイセムスのニュースレター「Our World Your Future vol.5」に掲載されたものです。研究者の所属などは、掲載当時のものです。