幹細胞研究とアイセムス

約10億年前、単細胞生物が細胞分裂を繰り返して、自分のコピーを作り続けていた世界のなかに、偶然にも多細胞生物が誕生しました。多細胞生物は、一つの細胞から多様な働きをもつ細胞を生み出す能力をそなえた「幹細胞」を編み出しました。私たちアイセムスの研究者は、2007年の設立時から幹細胞の基礎研究に挑戦し、その能力を解きあかしたり、制御したりするために、さまざまな角度からアプローチしています。この特集では「幹細胞」をキーワードにして、アイセムスの研究活動をご紹介します。

長谷川光一 特定拠点講師

はせがわ・こういち
1972年に熊本県に生まれる。
1995年に広島大学理学部生物学科を卒業。
2000年に関西学院大学大学院理学研究科化学専攻を修了。
京都大学再生医科学研究所研究員、南カリフォルニア大学 細胞・神経科学研究科助教授などをへて、2011年から京都大学iCeMSNCBS-inStemサテライトラボグループ講師、インドNCBS・inStem助教授、2014年からメルボルン大学医歯学部上級研究員も兼任し、2017年から現職。ベンチャー企業の技術顧問も勤めている。

私たちの体は約37兆個の細胞からできています。その種類はなんと200種以上。膨大な数と 種類の細胞のもとをたどると、たった一つの細胞、受精卵にたどりつきます。お母さんのお腹のなかで受精卵は分裂を繰り返しながら、体を構成する臓器のもととなる「幹細胞」を生み出します。さらにその幹細胞から様々な種類の細胞が生み出され、私たちの体はできあがります。体内のさまざまな臓器がそれぞれの役割を果たすことで、私たちの生命は維持されています。それらの臓器ごとに必要とされる細胞の種類が異なります。それを生み出すのも「幹細胞」の働きです。私たちの生命活動の要ともいえる幹細胞。その秘密をのぞいてみましょう。

幹細胞のすごい能力「自己複製」と「分化」

幹細胞の特徴は、①自分の「コピー」と、②自分とは「異なる細胞」の両方を生み出せることです。

①自分のコピーをつくれる=自己複製

幹細胞は細胞分裂によって自分と同じ性質をもつ幹細胞を無限にコピーできます。この能力を「自己複製」と言います。複製された幹細胞は、その親の細胞と同等の自己複製の能力が与えられます

②自分とは異なる細胞を生み出す=分化

幹細胞はまた、自分とは違う細胞に変化することができます。この能力を「分化」といいます。例えば受精卵は、細胞分裂を繰り返しながら、皮膚の細胞、神経の細胞、肝臓の細胞などの役割をもった細胞に変化していきます。

いつも体内にいる幹細胞(成体幹細胞)

幹細胞は再生医療などの最先端の医療に用いられる「人工的な道具」のようなものとして認識している人が多いかもしれません。じつは、私たちの生体内にも、生まれたときからもっている幹細胞があります。それが「成体幹細胞」あるいは「組織幹細胞」といわれる細胞です。成体幹細胞には、赤血球や白血球、血小板など血液の細胞を生む造血幹細胞や神経細胞をつくる神経幹細胞など、さまざまな種類があります。分化した細胞が集まった組織のなかに存在し、その組織を維持したり修復したりするための細胞を生み出します。たとえば、転んでひざを擦りむいて傷ができても、数週間後には治癒します。これは表皮幹細胞によって新たな皮膚の細胞が生み出されるからです。

体のさまざまな細胞を生み出せる幹細胞
(多能性幹細胞 ES/iPS細胞)

いろいろな種類の細胞を生み出せることを「多能性」といいます。「iPS細胞」と「ES細胞」は成体幹細胞とは異なり、多種多様な細胞に分化できることから「多能性幹細胞」とよばれています。

・ES細胞(胚性幹細胞)

受精卵が体をつくるまでのあいだの、ほんの一時期にあらわれる胚盤胞から細胞を取り出し、それを培養することで得られる細胞です。1981年にマウスES細胞の樹立に成功すると、1998年にはヒトES細胞も報告され、日本でも京都大学の中辻憲夫教授(アイセムス設立拠点長)らによって最初に樹立・報告されました。その後の技術開発によって安定的に培養が可能となり、医学や生物学の分野で利用されるようになりました。この長年にわたるES細胞研究による多能性幹細胞に関するデータの蓄積が、その後のiPS細胞研究にもつながりました。

・iPS細胞(人工多能性幹細胞)

2006年に京都大学の山中伸弥教授らが、マウスからiPS細胞を樹立したことを発表しました。私たちの体の皮膚や血液などの体細胞に、ES細胞で働いている因子を導入し、これを培養することでiPS細胞を作製できます。iPS細胞を用いれば、患者さん自身の細胞からiPS細胞をつくり、病気や事故で失った神経、心筋など組織の細胞に分化させて移植することで治療が可能になると考えられています。また、難病の患者さんの体細胞からiPS細胞を作り、病気の組織の細胞に分化させることもできます。患者さんの細胞と健康の方の細胞との比較をすることで、病気の原因の解明や、新しい薬の発見につながるかもしれません。山中伸弥教授は、アイセムスの設立当時からのメンバーであり、2010年にiPS細胞研究所を立ち上げた後も、2016年度まではアイセムスの連携主任研究者として研究に携わりました。

幹細胞でつながる研究者たち

異分野の研究者たちが協力しながら、ユニークな視点で研究に取り組む姿勢は、アイセムスの文化です。若手やベテランを問わず、異分野の研究者が気軽に声をかけあいながら共同研究に取り組んでいます。幹細胞研究も例外ではありません。長谷川講師も幹細胞研究を軸に、亀井謙一郎准教授をはじめ異分野の研究者と組み、幹細胞を提供したり、ほかの研究者から情報をもらったりするなどサポートしあっています。

亀井謙一郎准教授

共同研究の一例
ダニエル・パックウッド講師と中野敦客員教授(兼 米国UCLA教授)

数学者のダニエル・パックウッド講師と、心臓の発生を研究する中野敦客員教授も幹細胞を切り口に共同研究をしています。生物学の実験で得られた大量の数値やデータから、一つの結論を導き出すには、データ解析をしなくてはなりません。こういった場面で、お互いの専門性を生かして協力しあっています。例えば、マウス胎児の心筋細胞の一つひとつをバラバラにし、それぞれの1細胞の中で働く約2万個の遺伝子の量を測定し解析することで、それぞれの細胞の個性を下の図のような二次元のマップで表せます(下図:UMAP解析法)。点の一つひとつが細胞を表しています。これまで認識できなかった、わずかな細胞どうしの性質の違いが見いだせるようになりました。今後、マウスの心臓発生時の細胞を単細胞レベルで経時的に調べることで、心筋細胞が幹細胞からどのように分化しているなど、細胞どうしの関係性やつながりがみえてくることを期待しています。

マウス胎児の心臓に含まれる細胞を単細胞レベルでUMAP解析してプロットすると、16種の細胞に分けられることが一目でわかる
ダニエル・パックウッド 講師

COLUMN

中辻憲夫設立拠点長

設立拠点長は、ES細胞研究の先駆者!
アイセムスの中辻憲夫設立拠点長は、日本で初めてサルとヒトのES細胞を樹立し、ヒトES細胞のスタンダードな培養システムを築き上げました。これまでに幹細胞研究の先駆者として、ヒトの多能性幹細胞を用いた細胞治療や薬品開発に向けた技術の研究開発などに尽力されました。その技術を通して、国内の産学連携に貢献するなど、その功績は計りしれません。アイセムス創設当初の2007年ごろ、中辻設立拠点長が挑戦していたのは「マテリアルを用いた幹細胞の制御」。異分野の化学者が、ユニークな物質や材料を創っているのを知ると、それらをツールとして積極的に取りこみ、細胞や組織の働きの制御や、病態を培養下で再現する方法、生物のしくみを解き明かす手がかりを模索していました。

アイセムスの幹細胞研究

幹細胞を用いた研究に取り組む研究者のなかから、3名の研究者を紹介します。

幹細胞の謎にせまる
どうして未分化状態が保たれる?

長谷川光一 特定拠点講師

体内で幹細胞は未分化の状態を維持したまま、自らのコピーを増やしたり(自己複製)、心臓や血液などの組織のもとになる特定の細胞に変わったり(分化)します。この自己複製と分化という現象は、細胞の外側からの情報が細胞内に伝わることでコントロールされています。しかし、そのメカニズムはじつはよくわかっていないのです。私たちは幹細胞の自己複製と分化がどのようにコントロールされているかを解明するために、細胞の外からどんなプロセスでどんな情報が細胞内へ伝達され、細胞を制御しているのかを研究しています。この制御メカニズムをあきらかにすることで、特定の化合物を用いて意図的に未分化の状態を保ったり、特定の組織への分化を促進することができるはずです。こうした基礎研究を続けることで、幹細胞を用いた新たな治療法や新薬の開発などの応用研究につながる可能性があります。

応用研究の一例!

低価格のiPS/ES細胞の培養方法の開発
iPS/ES細胞の作製や利用には、大量の培地が必要です。培地の製造費用はとても高価なので、iPS細胞を利用した再生医療や創薬の研究にはこれまで膨大なコストがかかっていました。費用を抑えられれば、多能性幹細胞を導入しやすくなり、研究にかかわる人の手間も減るはずです。こうしたニーズに応えようと、私たちは人工的に合成した化合物を用いた合成培地を開発しました。材料費をこれまでの20%から10%ていどまでに抑え、従来と同様に多能性幹細胞を増やし、iPS細胞を作製できます。

ニューロン移動のダイナミクス制御
神経幹細胞の分化

見学美根子 教授

脳は、約100億個のニューロンが整然と並んで構成される精緻な回路で、人間の意識・無意識のすべての行動をコントロールしています。脳のなかにあるニューロンの動きはとてもダイナミックで、脳内を移動することで神経回路がつくられるのです。さらに、複雑に分岐した樹状突起と軸索を伸ばすことによって特定の相手とシナプス結合します。私たちは脳が作り上げられていく過程を直接的に観察し、その原理をあきらかにしようとしています。胎児期の脳には幹細胞が並んだ分裂層があり、そこで幹細胞が活発に分裂して数を増やし、移動能のある神経前駆細胞になると分裂層を離れます。さらにニューロンへと分化すると、組織内を細胞移動し、秩序正しく積み上がって脳の皮質をつくります。ニューロン移動の異常は、てんかんや精神遅滞、運動失調などさまざまな神経疾患を引き起こします。脳が発生する過程のニューロン移動をガラス基板の上で再現し、そのダイナミックな動きを制御するしくみを解析しています。

ニューロン移動による皮質形成(大脳皮質の例)
脳室直下の分裂層で自己増殖する神経幹細胞(赤)は、最終分裂後にニューロン(緑)に分化すると順次表層にむかって細胞移動し、皮質を形成する

生体外で生体内の相互作用を再現
iPS細胞が開いた無限の可能性

亀井謙一郎 准教授

私たちが取り組んでいるのは、「ボディ・オン・チップ」という極小のデバイスの開発です。小さなチップのなかに肝臓や心臓などの組織を組みこむことで、ヒトの体を生体外で再現できます。この研究にもiPS細胞は欠かせません。自己複製の能力をもつiPS細胞を利用することで、同一人物に由来する心臓や肝臓などの組織をつくることが可能になり、必要な量の組織・細胞を無限に準備できます。ヒトの体内モデルを小さなチップに再現できるため、生命現象の理解や創薬の臨床試験への利用が期待されます。たとえば、患者さん由来のiPS細胞からボディ・オン・チップを作れば、その疾患メカニズムがわかり、予防法の検討や治療法の開発につながるかもしれません。

2020年3月発行 iCeMS Our World, Your Future vol.9 から転載
制作協力:京都通信社

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